DNA考古学、古代稲作技術の大革新期・古墳時代、そして鳥取

2011年 07月 16日 05:38

(記:三野 徹)


私が主に研究拠点としている「農業農村工学会(旧農業土木学会)」が数年前に創立80周年を迎え、記念事業の一つとして記念出版が企画され、私は編 集委員長という重責を負うこととなった。そこで私は、当時、総合地球学研究所の企画担当副所長の佐藤洋一郎教授との対談で、農業土木技術が誕生した弥生時 代から古墳時代にかけてのわが国の稲作の一大発展期の背景をこの記念出版で描き出したいと考えた。

当時、朝鮮半島では製鉄技術を背景に、灌漑土木技術と鉄製の農機具を駆使した新しい稲作技術が確立していたと見られている。製鉄技術やこの新しい稲 作技術がわが国に伝来し、従来の弥生稲作とは異なる強力な生産力を持つ社会(クニ)を生みだし、魏志倭人伝にいう大きな混乱期、すなわち古墳時代が展開し ようとしていたと考えられる。その後、鉄製の武器と強力な生産力を背景に有力なクニの一つである邪馬台国が西日本を統一して大和王権を確立し、そして強力 な統一国家が形成されていったというわが国の歴史の展開の原動力となった。


佐藤教授は、DNA考古学を背景に、それまでアフリカを原産地としてインド洋を経由してブラマプラ河をさかのぼり、雲南を経由して伝播した とするジャポニカ種の「イネの道」の定説を完全に覆してしまうという壮大な研究を精力的に進めた。イネの栽培起源地をメコン下流地域とし、最古の中国稲作 遺跡は長江下流に近い浙江省の河母渡遺跡で、黄河文明より古い7,000年前にさかのぼることが、中国の研究者や佐藤教授の属していた研究グループの手に より明らかにされた。まさにそれまでの稲作の歴史を大きく塗り替える研究であった。

その中心となった研究手段が「DNA考古学」であった。

先端科学の代表である「DNA」研究と伝統的で融通の利かない化石的学問の代表である「考古学」の組み合わせが私にとって新鮮な驚きであり、そのミスマッチに大いに興味がそそられた。

DNAは多様な生物種を生み出す基本的な物質であり、遺伝子組換により新たな機能を持つ作物の創出など、種の改変操作の象徴と私は考えていた。しか し佐藤教授によると、DNA考古学で注目する遺伝子は、遺伝情報を運ぶ部分とは直接関係しないいわゆるのりしろの部分に当たり、環境によって淘汰されない 部分であるとのことである。この辺については専門外の私には理解できないところも多い。

さて、このDNA考古学によれば、わが国のイネの品種は8種の型の中でa型とb型の2種類に限られるとのこと。九州や瀬戸内海周辺ではb型が分布す るが、北九州や山陰を始め日本海側ではa型が分布しているとのことである。一方、長江下流を始め中国大陸ではb型が、朝鮮半島ではa型が広く分布してい る。とすると、b型は長江下流から北九州へ伝播してきた大陸系イネが、a型は朝鮮半島を経由して伝播してきた半島系のイネであるとする大胆な仮説が立てら れる。

長江下流といえば典型的な湿潤地域であるが、半島との間には典型的な畑作地帯である黄河流域が広がっている。また、朝鮮半島の付け根はさらに北に広 がる牧畜文化地帯に属すると見られる。とすると、半島を経てわが国に伝播したA型稲作は畑作と牧畜の影響を大きく受けた稲作であると考えることが出来る。 湿潤地稲作では収穫方法は穂狩りを基本とするが、わが国の稲作の根狩り技術は家畜の餌を考えた稲作体系である。また、田植えを行う移植栽培は半島稲作に見 られる独特のもので、大陸には見られない技術であるとする研究者もいる。また、半島経由の稲作は、鉄と組み合わせた灌漑土木技術と乾田を耕す強力な鉄製農 具をセットにした稲作技術であり、さらに、仏教まで絡むとする見方もある。とすると、弥生の後半から古墳時代にかけて伝播してきた新しい形の稲作文明なの かもしれない。

出雲や伯耆、因幡や但馬、若狭などの日本海側に展開する稲作は、弥生時代後期から古墳時代にかけて伝播してきた新しい稲作と考えるべきなのだろう か。そうであれば、それらは鉄と仏教、灌漑土木からなる複合体であり、わが国の古墳時代や飛鳥時代といった歴史の展開の礎を担った新しい文明であったとい えるかもしれない。鳥取という地はこのような歴史の一コマが駆け抜けた地のような気がする。

遺伝子考古学から見るとき、鳥取という地は空想と歴史のロマンが限りなく広がるところであるように思うのは私一人だろうか。

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